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バクテリオファージの歴史(前)~忘れ去られた栄光の歴史

2019.07.15

この記事の内容は…
  • ✓バクテリオファージ発見者の波乱万丈すぎる生涯
  • ✓バクテリオファージ発見の影なる立役者は「イナゴ」?
  • ✓実は早かったバクテリオファージの「医療分野への利用」

フェリクス・デレーユ。バクテリオファージの名付け親。ノーベル賞候補に8回も挙がったこともある男。

そんな彼は生物学の学位を持っていないどころか、高校しか卒業していません。今回はフェリクス・デレーユの波乱万丈な生涯を少し紹介したいと思います。

パリからの脱走兵

フェリクスは1873年4月25日にパリで生まれました。彼の出生時の名前はヒューベルト・フェリクス・アウグスティン・ヘレンツだったとされます。

彼の幼少期に関する数少ない資料をひも解くと、彼は2つのパリの高校で学んだが特に成績優秀というわけではなかったことが分かります。彼はその後、数か月間ボン大学で医学に関する講義を聴講したのち、20歳の時に弟のダニエルと共にフランス軍の義勇軍に入隊しました。しかし、フェリクスは何らかの理由のため軍から脱走しています。

フェリクスは24歳の時、妻や子供と共にカナダに移住し、国籍を変更しました。そして軍隊から脱走した過去から逃れるためか名前も「デレーユ」に変更しています。

若き日のフェリクスは出来ることは何でも行いました。ある時はカナダ政府の発注で蒸留酒製造のためにメープルシロップの発酵・蒸留プロセスについて研究をし、またある時はカナダ東部ラブラドル半島での金鉱探査に参加しました。そうやってこつこつと貯めた資金をチョコレート工場に投資しましたが、工場はすぐに破産してしまいました。フェリクスは家族を養うためにグアテマラ政府と契約して病院でマラリアや黄熱病の治療に従事しました。

30歳になったフェリクスはメキシコ政府から、リュウゼツランのシロップを使ったアルコール飲料の開発を任されました。彼はユカタン半島に家族と共に移住し、新たな「リュウゼツラン酒」の製造方法を開発しました。そして、フェリクスは大規模なアルコール製造装置を手に入れるためパリに渡航しました。

そうして故郷に戻ったフェリクスはそこでパスツール研究所と出会い、研究所で無給助手として過ごすようになりました。彼は後にメキシコに戻りましたが、その時にはアルコール工場への関心をすっかり失ってしまっていました。

ちょうどその頃、彼はふとイナゴが謎の病気のせいで大量死していることに気が付きました。プランテーション(大規模農園)経営者にとってはイナゴは畑を荒らす憎き敵です。フェリクスはイナゴの死体から分離したCoccobacillus菌を使って殺虫剤を作ることを思いつきました。これが彼の運命を変えることになりました。

イナゴに感謝

すっかりアルコール工場に対する熱が冷め、かわって微生物の魅力にとりつかれたデレーユは1911年にパリに戻りました。フェリクスはパスツール研究所に入り、そこでネズミチフス菌に対するワクチン開発に携わりました。それとともに、暇な時間には赤痢菌にかかった騎兵中隊の病人から分離した赤痢菌を使って実験を重ねました。


フェリクスは1917年、「目に見えない微生物、赤痢菌の敵」と題する論文を発表しました。フェリクスはこの論文の中で「赤痢菌患者の腸内に回復直前期になると赤痢菌を溶かすことのできる『エージェント』が出現することを観察した。私がバクテリオファージと名付けたこの『エージェント』は細菌を利用して増殖する能力を有している」と述べています。

実はこの『エージェント』の存在を指摘したのはフェリクスが最初ではありませんでした。フェリクスの論文発表から遡ること2年前の1915年、イギリス人のトウォートがブドウ状球菌を「変質させる要素」について書いていました。

ファージが形成したプラーク(東工大の丹治教授提供)

トウォートの論文を剽窃したと非難されたデレーユは「私はまだメキシコにいた1910年に、イナゴから分離したCoccobacillus菌をシャーレで培養した時、培地の表面にプラーク(穴)ができることを発見した。私はこのプラークをすくい、顕微鏡で見てみたが何も観察できなかった。私はこの実験結果などを考慮して、フィルターを通り抜けるくらい小さい何かがプラークを作って、細菌の増殖を抑制しているという結論を導き出した」と主張しました。

さらにデレーユはチフスにかかった鶏に対してバクテリオファージを用いた試験を行い、死亡率が95%から5%に下がることを立証しました。そしてバクテリオファージの存在に関する論文発表のたった2年後にはパリの小児科病院でバクテリオファージを用いて赤痢菌を治療する臨床試験を行いました。

デレーユは最初の論文発表により学界にファージブームを引き起こしました。デレーユはパリでファージ研究所を設立し、娘婿が所長に就任することとなりました。

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参考文献: «Под знаком бактериофага: Париж – Тбилиси». Наука из первых рук (2016) том 70, №4

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