「ジョージアは私を必要としている」
話の舞台は前篇から移ってジョージア。ロシアとトルコという二つの大国に挟まれたジョージアは文明と民族の交錯点として古くから栄えてきました。
ジョージアの古都ムツヘタの町並みとクラ川
ジョージアのファージ研究の父、エリアヴァはジョージアの医者の家庭で生まれました。エリアヴァは革命活動を理由にオデッサ大学から追放された後、ジュネーブ大学医学部に入学しました。その後、第1次世界大戦をきっかけにモスクワ大学に転校しています。
モスクワ大学を卒業したエリアヴァは細菌研究所の所長としてトラブゾンのカフカス戦線に派遣されました。
エリアヴァは1917年、クラ川の水の殺菌効果を偶然発見しました。その時にはデレーユが既にファージに関する論文を発表していたことから、クラ川の殺菌現象はコレラ菌をターゲットとするファージの作用によって説明できることが明らかになりました。
“細菌を退治する?!バクテリオファージの働き”
クラ川が流れるジョージアの首都トビリシ
エリアヴァは1918年以降パスツール研究所を数回訪問し、そこでデレーユと出会いました。デレーユはエリアヴァにパリに残るよう勧めましたが、エリアヴァは「ジョージアは私を必要としている」と言ってジョージアに戻りました。
エリアヴァは1923年にデレーユの支援を受けて、チフリス(今のトビリシ)にソ連初のバクテリオファージ研究所を設立しました。この研究所はファージ工場と実験的病院を兼ねる世界に類を見ないファージセラピーセンターとして設立されました。この夢を早々に実現できたのはソ連重工業人民委員のオルジョニキゼからの支援があったからだと言われています。
エリアヴァ研究所で製造されているファージ製品。エリアヴァ研究所は現在に至るまで世界のファージ研究の中心となっている
デレーユは自費で設備や図書資料を取り寄せてこの研究所に提供しました。そして1933~35年には自らチフリスに来て無給で研究しました。デレーユは最初ジョージアへの移住を検討していたと言われています。デレーユは現に自身の新著「バクテリオファージと回復現象」をスターリンに献呈しています。
しかし、デレーユはソ連共産党の権力争いなどを目の当たりにして幻滅し、1935年に突然帰国しました。彼は二度とジョージアに戻ってくることはありませんでしたが、ジョージアへの設備面での支援は引き続き行いました。
エリアヴァの悲劇的な死
エリアヴァは1937年、フランス政府のためにスパイをはたらいた容疑と疫病拡散を試みた容疑で逮捕されました。この逮捕はジョージア共産党第1書記だったベリヤの命令で行われました。
エリアヴァは1937年7月、ジョージア最高裁判所で死刑を宣告され、妻と共に銃殺されました。そして養女のガンナには5年間のカザフスタンへの流刑処分が宣告されました。
一方、デレーユは第2次世界大戦中、パリで連合軍のために妻や娘と共に薬を製造していました。パリが1940年に占領された後、デレーユはドイツ兵の治療のためにファージを生産するのを拒否しました。そのためデレーユは44年にパリが解放されるまで自宅軟禁されました。
デレーユは戦争を何とか生き抜きましたが、戦後間もなくガンのため亡くなりました。
“ファージの運命(後)~第二次大戦に「参戦」したファージ”